ふと

思うところを。自分のサイトだし。
特定の事象や人物に対しての話ではなくて、日頃の己の思考整理というか。


駿水マスターの性格設定の基礎「信じなければ裏切られない」ていうのは自分の中の根底にもあって、親しい人間との距離感や意見の衝突がこたえるならそもそも誰とも親しくしなければ何とも思わないじゃないかとか、
周りで楽しそうにしている仲間たちの中に入れない事が寂しいなら、そもそもそれすら見えない所へ行ってしまえばいいじゃないかとかそういう思考に流れて、多分駿水はそれを実行しているのだけど、自分は彼ほど強くはなれないので、どう思われただろうとか寂しさだとか、対人での面倒臭い思考に何度も捕らわれるのにそれを繰り返してしまう。
しかしこうして楽しそうな輪から目を反らして踏み込まないので結果、こちらも踏み込みづらい人間、になるらしい。

でも積極的に人と交流を持ってそういう輪に入れなくても、淡々とものを作ってアウトプットしていれば誰かには覚えていて貰えるし、自分の考えや価値観は言葉では伝えられないし、自分はものを作っていなければ何の価値もないと(これは本気で)思っているので、作者本人なんかどうでもいいから作ったものを見ていてほしい、て思う。
勿論すべてが未熟で大層な作品なんかとても作れないけど、私に限らず、腕の良し悪しや趣向と関係なく、作品て見る人へ宛てた手紙だから、その作者の生き方やまわりの人たちとの関わり、作者そのものが見える気がする。

表面だけ真似して虚勢を張りたいのか、内側の悶々としたものをさらけ出すのか、安全な構図で狂いなくかっこよく見せるのか、たとえへぼっても挑戦するのか、大衆受けを求めるのか自分の中身を吐き出したいだけなのか、この程度で満足するだろうなのか常に全力投球なのか、読者への誠意だとかも作品とその制作過程を見れば、仮面の向こうが全部見える気がする。
だから自分も、ものを作っている人ならば作品を通して人を見ようと努めている。

駿水のような、人を近付けない、近づかない生き方が理想な訳では勿論なくて、常に人と繋がっていないと落ち着かない人間なのだから当然、友達と呼べる距離の人は沢山欲しいけど、人間付き合いで考えても仕方のない事を思い悩んで眠れも、人生で一番肝心な、作品制作できるでもない無駄な時間を過ごしたり分析整理したり、己の思考パターンを面倒臭いと嫌悪したりするくらいだったら、他人との関わりの事など何も考えず黙々とものを作れる人間になりたいと願ってしまう。

発言よりも行動で示す事がかっこいいと思っていて、ちゃんと見てくれる人間なら言葉になどしなくても分かってくれると信じているけど、言わなければわからないという言葉も同時に存在しているから、よく言葉が足りないと言われたり誤解を受ける。
のだけど、言い訳もかっこ悪いし一度嫌なところが見えてしまうと、些細な事でもそのすべてがひっかかるようになって、弁解をしたところで傷は広がるばかりで二度と修復はできないから、なんかもうそれならそれでいいやとなってしまう

しかし都合の良い一部の接点のみで騒げる仲間が、広く浅く沢山いればいつも賑やかな人生になりそうだけど、そんなに人と関わっているのにたとえ翌日死んでもしばらく誰にも気付かれないのはもっと寂しそうです。


結論が行方不明。
欝ってるとか誘い受でもなくてふんわりと。
ウダウダ言ってないでとにかく何か作ろう 自分にはそれしかないんだから
2012/03/26(Mon) 00:26:44 | 戯言

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